今週は体調を崩しています。鼻水ずるずるです。
忘年会シーズンということで飲み会もちょこちょこあったり、師走らしく仕事も慌ただしいのでしっかり風邪をこじらせてしまいました。しんどいです。
宗教のタイトルになってしまっていますが、思うところがあったので考えてみました。「信じる」ってなんなのか?って話です。
過去に書いたエントリでは「普通のことを普通にさせない凡人の壁」について考えました。この時は「普通になるには諦めないといけないことが多い、だから普通であることを目指さない方がいいんだけどそれが簡単にできたら苦労しない」と書きました。今も「普通であること」に縛られてしまっていることを日常の節々で感じています。
例えば、僕はフレックス勤務を利用して週に1回16時半に退社(定時は17時半)して保育園のお迎えにいっています。上司にも残業時間を削減するよう指示されていますし、会社都合であれプライベートであれ融通のある勤務体系で仕事をすることを承認されています。
先日も「仕事終わらないなあ」と思いながら16時半に退社しようとしたところ、たまたま上司が居室に戻ってきました。その時に起こったのがこれです。
今日は保育園のお迎えなので早退してたら、たまたま上司とすれ違ったときに笑顔で「フライングやねー」と言われた。冗談なんだろうけどビックリして「すいません」って言ってしまい気まずい空気に。フレックスだから問題ないんだけど、「定時」という概念に縛られてるよな。
— たけとけた (@jastaway03) 2017年12月20日
この時、僕は本当に自然に「すみません」と謝ってしまいました。ルールに従って業務時間をコントロールしようとしただけなのに、ほとんどの人が守っている「定時まで働く」という「普通」に支配されていたわけです。もちろん上司は咎めるつもりで言ったわけではなく、雑談で言っただけでした。この時の気持ちはなんとも表現しがたく、苦しかったです。
なんというか、「人と違うことができない」ってことに直面すると惨めな気持ちになるな、、、学生の時はそんなことなかったのに、洗脳されてるよな、、、
— たけとけた (@jastaway03) 2017年12月20日
では僕はどうしたらよかったのかな?ってことに対して答えが出ていなかったんです。
でも「サピエンス全史」を読んでいて腑に落ちたことがあります。
「正しいから信じている」のではなく「信じているから正しい」のだと。
「サピエンス全史」の中で、サピエンスは想像し、想像を共有することでコミュニティを気づくことで生態系の中で優位に立ってきたと説明しています。この切り口で宗教の構造も論じていますが、「想像上のものを信じる」という意味ではキリスト教も資本主義も同じだということです。
例えばキリスト教では、悔い改めることで天国に行ける、そのために日々の生活を律します。天国は人間の想像上のものです。あるかないかもはっきりしてないものを信じて、そのために日々の行動を規定しています。
一方で資本主義も同じと考えられます。資本主義経済ではお金がお金を生み出していく仕組みですが、そもそも貨幣自体はなんの価値も持たないものです。人間が「これで〇〇と交換できる」と決めることで、なんの価値もない紙切れに価値を生み出します。みんなで約束して「これには1万円の価値があるんだよ」ってしているから1万円です。
これはどちらも「存在しないものを想像して価値を見出している」ということなんですね。一見お金のほうが実在しているようですが、実際にやりとりしているものは通帳の数字だったりするわけです。それって神様の像を作って拝むのと、本質的には変わらないです。
で、本題に戻りますと「僕は普通教の信者なんだな」と気がつきました。今までは「普通にすることは正しいこと」という価値観からは逃げられないよなあと思っていたんですが、実際は「普通にすることを正しいと信じている」だけだったんだんです。もっというと「普通にすることは正しい」という宗教を会社の人たちとも共有していたいと感じていたんです。だから冒頭にあったような「すみません」が自然に出てきた、「普通でないことの後ろめたさ」っていうのがあったんですね。
でもすっごいしょうもないよなあと思ってます。そのあとにすれ違ったおっちゃんたちは笑顔で「お疲れー」と声をかけてくれています。気にしているのは自分だけだったななと。仮に他の人が気にしていたとしてもそれは正しいことでも間違っていることでもなく、そう思っているという意味しかないんです。
最近も風邪でも送別会があればしんどそうな顔をして参加していましたが、こんなの完全にポーズですよね。周りの人に「あいつはしんどそうだけど、律儀に送別会にきている」って思ってもらいたいだけ。まあ行ったら行ったでしんどくても楽しいもんですが、愚痴ったりもしてしまっているのでやはりよくないと感じています。
それで「普通教」の信者をやめます!って最初タイトルに書いてたんですが、じゃあやめて何になるんだろう?となってしまいました。「自分は何を信じて生きていくのかな?」と。
でもよくわからないけど暫定で「自分で決める教」の信者になるところから始めてみます。今の価値観を「普通かどうか」じゃなく「自分で決めたか、やりたいと思ったか」ってところで区別していくことで普通にしてしまうことで惨めな思いをせずに、楽しくできたらいいですね。
大人になってからの読書は色々考えることができて楽しいですね。
ではでは!