たけとけたと片付かない部屋

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感想「仮面ライダー令和ザ・ファーストジェネレーション」はなぜ決して交わってはいけないのか?

どうも、たけとけたです。

仮面ライダーゼロワンの冬映画、「仮面ライダー 令和ザ・ファースト・ジェネレーション」を観てきました。時間的にスターウォーズかどちらかしか今週は見れそうになかったので悩んでたのですが、まあ絶対好きだろうなと思った仮面ライダーの映画にしました。

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 観た結果としては、堅実ながらもパフォーマンスの高い作品でしたね。

 仮面ライダーゼロワンのエピソードゼロのニュアンスもいいし、仮面ライダージオウのメンバーのやりとりや変身シーンなんかも思い入れが強いのでグッとくる。変身前の戦闘シーンも気合が入っていて、「これ本当に仮面ライダーなのか?」と思ってしまうほどだったし、仮面ライダー1型かっこいいしで予想通り面白かったです。

 特に印象深かったのが、この映画の触れ込みである「決して、交わってはいけない」と言う点でした。以下ネタバレを含みながら感想を記します。

 新旧仮面ライダーそろい踏みの冬映画

 仮面ライダーシリーズはここ20年弱、1年おきに仮面ライダーを変えて別作品として放映しています。(例外で半年のディケイドもありますが)近年では奇抜なデザインの仮面ライダーも出てきている一方で、パラレルワールド設定であるも仮面ライダーシリーズとして歴代ライダー同士の繋がりが劇場版では描かれています。この冬映画も前作の仮面ライダージオウからゼロワンへの引き継ぎ、バトンタッチの意味合いも持たせてました。

 ただ今作触れ込みの「決して、交わってはいけない」の意味合いに注意しなければなりません。前作の仮面ライダージオウでは、歴代のライダーが独自に生成したそれぞれの世界を統一し、その唯一の世界の魔王にジオウがなる設定で話が進み、最終的にはジオウ自身の手で世界の統一をやめて、それぞれの世界を独立させて秩序を保つエンディングです。

 なので、「決して、交わってはいけない」の文字通り仮面ライダージオウにとって他のライダーとの交流は自ら課した制約を逸脱します。レジェンドライダーが四方八方から出演していたジオウの世界観だからこそ、各世界の独立を宣言することで物語を着地させたので、交わってしまう時点でジオウにとって秩序が破綻してしまう。

 今作ではこれまでのバトンタッチの意味合いを持ちつつも、仮面ライダージオウ世界のルールそのものを揺るがす矛盾を背負っています。(もちろんこれまでのライダーの共演もパラレルワールド設定に定植しているのですが、ジオウにとってはそれ自体を作中で扱っていた故に積み上げてきたロジックを破綻させるわけにはいかないだろうなと)じゃあどうやって何をバトンタッチするのだろうか?という点も今作の見所になっています。

このゼロワンへのバトンタッチを今作では

  • 父親(飛電其雄)からのバトンタッチ
  • 仮面ライダージオウからのバトンタッチ

の2つの側面から攻めることで、純粋な理念だけをバトンタッチすることに成功しています。

 

父親からのバトンタッチ

 映画ではジオウ組がゼロワン世界に介入する理由を「タイムジャッカーによる歴史改変」としています。この騒動で飛電或人が父である飛電其雄に会い、父の思いを知っていく過程が物語の軸となってます。

 これがよくある父から子への伝承になるのですが、単純に父の思いを知るだけで終わらせなかったところがすごくよい。というのも、父である其雄の夢を中盤で知るのですが、それで終わりではなくなぜその思いに至ったのか?その夢は或人が継ぐべきものなのか?を激しく問いかけます。

 

 そうなんです、この話では「それは自分の夢か?」と問いかけてくる。

 

 劇中で様々な登場人物が夢を語り、或人も自身の夢を語る。ただ父の其雄は或人の夢にノーを突きつける。対立の中で、或人は何度も自分の夢の意味を見つめ直す。最終的な夢の形は一緒かもしれないが、その夢は他人から与えられたものでも自分の境遇・環境がそうさせたわけでもなくなり、夢に強度が生まれる。

 父である其雄は「自分の夢を持つこと」をバトンタッチしたかった。それは自分の夢の焼き直しや旧来の価値観から生まれるものではなく、これからの時代を生きる或人が感じて形作った夢を抱いて欲しかったから。潔い親子のバトンタッチで、ヒューマギアの父だからこそ描けた最適解なのかもしれません。

仮面ライダージオウからのバトンタッチ

 もう一方で仮面ライダージオウとゼロワンの対決シーンが印象的なのですが、ジオウからバトンタッチをしたのは自分の仮面ライダー観を持つことでした。

 というのも仮面ライダーが長いシリーズであるが故に、「原点こそ頂点、だから初代が一番」とか「平成ライダーの最初が一番」などの声や、奇抜なデザインや設定から「こんなのは仮面ライダーじゃない」、初期原作に忠実に「仮面ライダーは悪の兵器だ」などなど仮面ライダーに対するイメージはすでに持たれている。

 でもそれは過去で、ゼロワンは現在進行形の仮面ライダーで未来を紡いでいける、だからありたい未来を作っていけばいい。次の世代は君たちなんだからと背中を押す。この思いだけを引き継ぐのが最高にエモくてよかったです。

 仮面ライダー観のバトンタッチは抽象的なので、ジオウとゼロワンとのやりとりでは極力説明を廃して、父親とのやりとりをメインにして同じ構造でジオウとゼロワンのバトンタッチの意味合いを伝える構図もなかなかよかったですね。抽象的なメッセージを類似の関係で説明するのは仮面ライダージオウの十八番であり、自分たちの得意技でバトンタッチしてます。もともとジオウでレジェンドライダーから得てきたものも、作品そのものというよりはそのエッセンスであったことを考えるとなかなかに憎い演出ですね。

ゼロワンが其雄とジオウと戦う意味

 この思いをバトンタッチするために、仮面ライダーらしく戦うんですよね。今作はこの戦うタイミング、配置がよくてグッときました。共闘することで思いを伝えるのが冬映画で多い手法ですが、今回は対立も要所でしっかり描いている。これは自分の夢(仮面ライダー)をお互い持った場合、他者と完全に同じであることはあり得ないことを再認識する儀式になっています。

 

つまり戦える=自分のものにできている、というメッセージとなってる。

 

物語終盤で唯阿のいう「守ってばかりじゃ時代は変わらないからな」もまさにそうで、攻めに転じることは軸を持ってないとできないわけです。現状に戸惑って守ってばかりでなく、夢に対する自分の確固たる思いで攻めの一歩が踏み出せる。変化の激しい時代だからこそ、思いを持ってぶつかり合う中で最良の答えが見つかっていくんじゃないかという、希望を感じさせるストーリーでした。

 ジオウ、終幕の日。ゼロワン、誕生の日。

 本作によってジオウの作品に求められる役割もひと段落したのかなと。というのもジオウの「歴史改変とその修復」という構造はこれまでの劇場版でのMOVIE対戦のようなものと非常に相性がいいわけで、ディケイドと同じく都合よく使えてしまう存在です。「ジオウ」を出してしまえば歴史改変〜解決で物語の起承転結はできてしまうし、記憶を無くしてリセットすることで映画単体の物語として完結させることができる。

 そんな自由度の高いジオウの属性を、最後ゼロワンは否定します。或人の「仮面ライダーなんだから」の発言と記憶の消去を否定する戦闘はジオウの作った「パラレルワールドは交わってはいけない」というゴールを否定します。

 それはジオウ放映時にはベストアンサーだったかもしれないが、新時代のゼロワンひいてはそれに続く仮面ライダーには関係ないと。来年はジオウのような時間移動ができる作品なしに、別のロジックで新旧仮面ライダーそろい踏みするかもしれないし、その儀式自体しないかもしれない。その瞬間瞬間にベストなものを作る、旧来の価値観なんて関係ないぞという過去に対する牽制と、それをよしとしてきた平成ライダーの個性を尊重している。時代を刷新していく覚悟と、過去を否定せず尊重している塩梅が気持ちよかった。 ジオウ、お疲れ様でした。

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娘と行かなかった映画館

 そんな仮面ライダーゼロワンですが、これまで仲良く仮面ライダーを観ていた長女がディズニープリンセスやプリキュアにはまって一緒に観てくれなくなりました。家で観てても「ゼロワン怖いからやめよう」と言われる始末。悲しい。この流れだと次女も好きになってくれない気がする。

 でもこういうもんですよねーと思いつつ、自分の好きな作品は録画を繰り返し観続けてしまう長女に自分の価値観を継承している気がして嬉しかったりもします。いつか、娘たちとも己をかけて戦わなければいけないな。。。

ではでは! 

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