たけとけたと片付かない部屋

製造技術の仕事や家事・育児、趣味について書きます。

「プロメア」は一見感情移入しづらいんだけど、アクションアニメとしては秀逸

ブログに設置したマシュマロに初コメントをいただけました!ありがとうございます!

さてさて、その内容というのが、、、

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なるほど、以前書いたプロメアの感想記事を読んでコメントをいただけたのかと思います。ありがとうございます。

www.taketoketa.com

 このエントリで言語化できる感想はあらかた出してしまっていたので、 なにを書こうかなと悩んでいたところ、、、

 

もう1ヶ月経ってるやん(汗

 

ということで1ヶ月遅れで大変申し訳ないのですが、「プロメア」の感想で多かった「キャラクターの思想の薄さ」「ロジックを無視した展開」に対して考察してみます。

がっつりネタバレ考察記事になります。

キャラクターの考えの変化に対する違和感

 Yahoo!の映画レビューを読んでいると、「キャラクターの言動がブレブレでただ叫んでいるだけに見える」とのコメントを複数見かけました。映画のシーンの大半はアクションシーンで、そのほとんどが叫ぶ台詞回しだったのでそういった印象を受けやすいですが、それ以上に「あれ?こいつさっきまでと言ってること違わないか?」ってことが確かにありました。

 特にW主人公の「ガロ」と「リオ」。この二人は物語の推進力を担っているだけあって状況、いやらしく言えば脚本家の意図に対して柔軟に考え方を変えていきます。ガロで言えばあれだけバーニッシュを忌み嫌っていたのに、バーニッシュ狩りの負の側面をざっと見ただけで考え方が変わったように見えるし、リオがガロに協力するようになるのも単に喧嘩して分かり合えたような気になってるだけで押し通しています。主人公特有の葛藤を描くシーンはほとんどなかった。物語のスピード感を優先して機微のある感情表現を最小限に留めた結果だと思います。一方で否定的な意見では映像上で論理を無視しているところが引っかかっているのかなあと。

「身体の継続性」の説得力の欠如

 少し話は変わりますが、脚本家の中島かずきさんはもともと演劇の本書きです。演劇は舞台上で俳優が演じているのをリアルタイムで観客が鑑賞する、という点において映画やアニメとは異なる表現形式になります。

 演劇は俳優と観客を同タイミングで同じ場所・同じ時間に拘束する必要があるため敷居が高く大量生産には不向きな媒体です。ですが映像作品と違う表現者側の大きなメリットがあります。それは「身体の継続性」による説得力を使えるということです。

 みなさんも必ず経験のあることに「この人、昨日と今日言ってること全然違うじゃん」があると思います。昨日は賛成してくれていたのに、今日は反対される、こっちはなんにも変わってないのになんでだ?というようなよくある話。実際は賛成してくれた後、違う人の意見を聞いて気が変わったとか、昨日は機嫌が良かったから賛成したけど今日は機嫌が悪いから反対な気がしてきたとか、受け手側からすると理解不能な変化であっても送り手側には一定の(合理的か不合理かはおいといて)理屈・イベントがあって変化していきます。日常生活ではこの変化で理不尽な目にあっても、納得はしますよね。

 これと同じように演劇は俳優の演技を観客にリアルタイムで見せることで、日常生活に近い納得感を抱かせることが可能です。観客の嘘に対する許容度が増すと言ったりします。さっきまであんなに熱く語ってた男性が、女性に少し口説かれただけで意見を変えてしまうような「そんなこと無いだろ」って突っ込みたくなる展開であっても「でも、あの雰囲気で言ってるから、なんか本当かもしれない」と思わせる空気を演劇では作ることができます。1970~80年代の演劇シーンではこの手法を拡張した「身体で物語を拡張することで論理を超える小劇場演劇」ブームが起きたりもしました。種類は異なりますがアニメを視聴する方が馴染みやすいところで言えば、2.5次元の弱虫ペダルの舞台での自転車ライドの表現なども身体による表現を拡張することで自転車に乗ってるように見せかける手法です。あれを映画でやるとかなり苦しく白けてしまいますが観客と嘘を許容できるレベルが増してる舞台だからこそできる表現ですね。

 一方で映像作品では身体の継続性による表現はほとんどの場合使えません。それだけの矛盾・嘘を内包するだけの演技であっても、観客の矛盾や嘘に対する許容度は演劇のそれとは異なります。舞台ではその敷居の高さを超えることで制約を突破できるのですが、映像作品ではその点を超えられないんですよね。

過去作品のテンプレ化でその壁を超える

 プロメアにおいて「身体の継続性」を使えない、だったらアクション映画としての2時間を作ることでスピード感を出そう、というのが今作のコンセプトかと。

 ただこれだけでは汎用な作品となってしまうため、らしさを表現する方向で作った結果が「過去作品のテンプレ化」だったのだろうと思います。過去作品によるバックグラウンドを錯覚させて「おそらくこのキャラクターはこう動く」と観客に予感させることで作品内で非連続な部分を超える力学を作ったのかなと。

 

監督の今石洋之さんとの打ち合わせで「劇中歌を使っていこう」となったとあってバトルシーンではガンガン流れてくる。こうなってくると勝手に涙が出てきますよね、音楽だけで泣けてしまう。劇中歌と合わせて台詞の応酬もあるので音響ガンガンで聞き取るのが大変なんですが、キャラクターが記号的なので何言ってそうかはだいたいわかってしまうので、もうディスコ感覚ですよね。盛り上がればいいじゃんって感じです。ディスコいったことないけど。

「プロメア」は「グレンラガン」「キルラキル」と変わらぬぶっ飛ばしっぷりでサイコーでした - たけとけたと片付かない部屋

  特にガロはグレンラガンのカミナに酷似していたこともあって、役割としてグレンラガンのカミナを想起させることでバックボーンとして説得力を出す要素もありましたね。

アクション映画×アニメ劇場版の試み

 もちろん今石洋之×中島かずきの過去作を知らない人でも楽しめるよう、「爽快アクション映画」として打ち出してますし、そのためにCGアクションを先進的な映像で盛り込んでいます。アクション映画はかっこいい・綺麗な俳優がド派手に活躍するのが醍醐味なんですよね。バイオハザードとか半分ぐらいはミラ・ジョボビッチの活躍を観にいく要素が強いわけでして。今作でもメインどころは俳優で固めてるのも、その意味合いが強いかと。

 一方でアニメを観ていると作風やシナリオの方がフォーカスされやすいです。まあ俳優を起用していると言っても声のみ出演ですからね。なので、「TRIGGERらしさ」「今石洋之×中島かずきらしさ」のフックを持っている層には刺さりやすかったけど、それ以外の層には刺さりづらい作品ではあったのかと。アニメでアクション映画、は一般受けするレベルで認知されてない、挑戦的な取り組みだったんですよね。

 また過去作のテンプレを使うにしても、その作品に思い入れが強いとうまく機能しない場合があります。「前作ではこんな風に登場人物の内情を深めていったのに」と残念な気持ちになってしまうのも分かるなあと。まあこの辺は、「劇場版が当たったのでアニメにしよう」とかを待つしかないかなあ。

クレイ・フォーキャストと堺雅人

 過去作のテンプレ、という意味では俳優に当て書きしたキャラクターがよくて、リオは早乙女太一君の雰囲気にバッチリあってて評判いいですよね。松山ケンイチは彼自身が突拍子のない、読めない俳優なので評価が分かれるところです。僕としては狂ってる松山ケンイチの方が好きなので、及第点でした。

 もっとも好きだったのが堺雅人です。秀才でかつ狂ってるというバランスは堺雅人ならではです。声の大きさとかも「言われたからやりました」みたいなところに堺雅人の狂人性が表れているとおもっていて。普通やれって言われてもできるはずがないラインまで、愚直に真面目にこなしてしまう強さ。無茶を地でクリアしてしまう強靭さに恐怖を覚えてしまう。ガタイこそ違えど、その狂人性はクレイ・フォーキャストそのものを体現していましたね。

プロメアの楽しみ方

 ここまでの考え方を下の図のようにまとめてみました。

  • 構造的か、混沌か(論理的か、感情や不合理な話か)
  • 連続性があるか、断続的か(シリーズものか単発作品か)

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 この図のように考えると、プロメアを一つの作品としてみると説明不足な点が多く感情移入しにくいものの、下記のように楽しめた方が高評価なのかなあと。

  • アクション映画として楽しむ
  • 作品が生まれた背景・声優や監督と脚本家のタッグを楽しむ

ちなみに僕は圧倒的に後者でしたね。キルラキルからのキズナイーバーで傷ついてしまった心が癒されました。

最後に、中島かずきとTRIGGERの新作がまたあるということでそちらも楽しみですね。

anime.eiga.com

ではでは!